| 「ねえ、一」 夜となり、は風呂に入っている。 妹たちが先に風呂に入り眠ってから、に先を譲ってダイニングで一はビールを飲んでいた。 「ん?何だよ。あ、お袋も飲むか?」 「飲む」と返して一の向かいに母が座った。 「ちょっと待ってろ」といって一はキッチンに向かった。 ビールを持って戻ってきた一からそれを受け取った母が口をつけた。 「ねえ、一」と先ほどと同じ言葉を繰り返した。 「何だよ」 「ちゃん、もう大丈夫なの?ほら、体の方」 ああ、そのことか、と一は納得した。 「完治ってのは難しいみたいだけど...とりあえず、帰国して一人暮らししても大丈夫ってくらいは治ったって」 改めて聞いてほうっと息を吐く。 の幼いころを知っている一の母親はやはり、彼女も自分の娘のように思っていた。 突然の転校で彼女の居所が分からない状況が何年も続き、日本を離れてから置いてけぼりにした息子から彼女の話を聞いたときには安心した。 しかし、息子がメールで送ってきた彼女の写真を見たとき、その安心は吹っ飛んだ。 彼女の瞳が冷め切っていた。 元々息子のように熱い性格ではなかったが、それでもここまで何かを諦めたような冷たい瞳はしていなかった。 いや、違う。時々ではあるが、小学生の子供とは思えない瞳をしていたことはある。大抵親のことを言われたときだ。 そして、卒業した日の写真を見せてもらったとき、やっと安心できた。 彼女は泣きながら笑っていた。 子供のとき、一度も泣かなかった。 世間では『泣く=弱みを見せる』と思われがちで、彼女もまたそう思っていたのだろう。だから、泣くことはしなかった。 どんなに苛められても、弟が泣かされて帰ってきても。 そのたびに自分の息子が家を飛び出していったことを思い出す。 「一は、まだちゃんのコト好き?」 突然そういわれて一はビールを霧吹きのように噴出した。 「な、何言ってんだよ!」 「汚いわねぇ...」 眉を寄せて一の母が言う。 「わりぃ。って、自分が変なコト言うのが悪いんだろ?!」 台拭きでテーブルの上を拭きながら一が抗議する。 「んで、どうなのよ」 これで「今はそんな気持ちないな」とか言ったら二度とこの家の敷居をまたぐことを許さないとか思いながら息子の言葉を待った。 「好きだよ」 何だって母親にこんなことを告白しなきゃならないんだろう... そう思いながらも適当に誤魔化したら煩そうなので正直に答えた。 母は満足そうに笑う。 「アンタ、女を見る目はあるねぇ。動物ばっかりかと思ってた」 「ネコにゃんを見る目だって自信あるぜ!」 胸を張って言う息子に思わず深いため息を吐く。 「相変わらずね...」 「へっへーん。聖帝周辺では一・二を争う美猫ともお友達になれたしな」 自信満々に言う一に「褒めてないって気づいてくれるかしら?」と冷めた瞳を向けて母が言った。 「ちゃんは、一の気持ち知ってるのかしらね」 こんな様子を惜しげもなく見せていたら好意は返されないだろうが... 「知ってるけど、それ以上はに言うなよ」 突然真顔になって一が言った。 何だ、こんな顔もできるんだ... 妹たちにデレデレして、動物の話題が出てきたらデレデレしていたから、デレデレする以外の表情はないのかと少しだけ心配になったのだ。 「知ってるの?」 「知ってる。5年位前に言ったから」 さすがに5年以上前に告白してその返事待ちをしているとは...なんと気の長いことだ。 「ちなみに、手応えは?」 「さあ、な」と返す一に再び深いため息を吐く。 「に勝手に答えを促すなよ」 「何で。アンタもいい加減待ちくたびれたんじゃないの?」 年単位で待たされているなんてさすがに思っていなかった。 「くたびれない。いつまでも待つって決めてるから。第一、お袋は知ってるだろう。の家庭環境。どういう環境で育ったか、とか。そういうの見てて、『君が好きだから早く返事くれよ』なんて言えないって。大抵世の中では『結婚=好きとか愛してる』だろう?はそれを実感できなかったし、むしろ『結婚=愛している』なら余計にそういうものを信頼できないだろうって思わないか?」 言われてみれば、と母は頷いた。 「だから、勝手に早くしろとかそういうの言うなよ。オレはを苦しめてまで答えがほしいって思ってないから。オレは、がオレのことを好きって言うよりも、楽しそうに笑ってる方が良いから」 突然声を上げて母が笑う。 「アンタ、結構イイ男じゃない!」 「まあなー」と一は笑って応えた。 「一、お先」 少ししてが顔を覗かせてそういった。 「おー。んじゃ、オレ先良いか?」 母にそう声を掛けると彼女は頷いた。 一はそのまま廊下に出て行き、一の母親はに「あとでここに戻ってきて相手して」といった。は頷き、とりあえず荷物を置きに宛がわれたゲストルームに向かった。 風呂からは少し前に出ていた。 一が居るであろうダイニングに行くと一と彼の母親の会話が漏れてきていた。 今回初めて実家に来たといっていた一で、彼はいつも忙しいはずだから久しぶりの親子水入らずの時間に水を差すのもどうだろうと躊躇っていると自分が聞いてはいけない会話へと発展していったので余計に声を掛けられなくなった。 一の言葉を疑っているわけではない。 それでも、やはり気になっていた。本当に待ってくれるのか、と。 一は自分に向かってはいつまでも待つといってくれている。それでも、それは自分を安心させるために我慢しているのではないか。安心させるために吐いている嘘ではないだろうか。 そう思っていた。 もちろん、そういう嘘を吐いていたからといって一を責める資格は自分にはない。 しかし、一はが居ないのにも拘らず、同じ言葉を母にも言った。 それが、一の本心だという証拠。 泣きそうになった。 一はいつも自分の気づかないことを教えてくれる。 心配してくれる存在があること。 自分を好きで居てくれる存在があること。 勉強ができてもそういうことがわからない自分よりは、多少勉強ができなくてもそういう人として大事なことを知っている一のほうが、人として余程素晴らしいと思う。 |
桜風
09.11.6
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