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ちらりと腕時計を見るとそろそろ計量の時間だと気付く。今回の試合は前日計量だ。
木村さんより背が高い彼はどう考えてもフェザー級はきつすぎる。しかし、彼はこの試合のために6年近く、階級を変えずにOPBFのチャンピオンにもなった。
計量の結果が気になって仕事が中々進まず、結局定時に帰ることが出来なかった。
何やってんだろ、私。
残業が終わって帰宅途中に携帯が鳴る。
私は慌ててそれを取り出して深呼吸をひとつして通話ボタンを押す。
「もしもし、です。」
『さん、宮田だけど。今日の計量通ったよ。
...明日の試合、来れる?』
幕之内君との試合が内定してから一度も連絡がなかった彼の久し振りの声だった。その間、私が彼に連絡を取ったのは年賀状と2度の礼状の3回のみ。お礼は電話で、とも思ったけど電話だと宮田君の時間を取ることになるから手紙にして家のポストに入れておいた。
元々私は用事がなければ電話もメールもしない人間だ。彼も似たようなものだからいつもどおりといえばそうだけど、私は久し振りの彼の声に嬉しくなる。
「あれ、宮田君でしょ?ウチにプラチナチケット置いていった人って。赤コーナーだったから宮田君だと思っていたんだけど...?まあ、いいや。うん、行くよ。約6年ぶりの対決だね。」
『6年ぶり...。あぁ、あのスパー以来だからな。じゃあ、さんは赤コーナーの方に居てくれるんだ?』
「うん。青コーナーのチケット断ったから、アレしか持っていないし。こんないい席のチケット、貰ったんだから。勿体無いでしょ?」
『そうか...。じゃあ、しっかり見ててくれよ?』
「勿論。最後まで目を逸らさずにしっかり見届けさせてもらうよ。」
『それじゃあ。突然電話して悪かったな。』
「いえいえ。...頑張ってね。」
そう言って私は電話を切った。
私が緊張しても仕方ないことなのは分かっているけど緊張して殆ど眠れなかった。
午後、メールの着信音が鳴った。返信はしなかった。
会場へは車で向かった。
セミファイナルなどを見ても、私の心はここにあらず、という状態だった。
2人が入場してきた。
私は目を瞑って試合開始のゴングを待った。
第4ラウンド、彼は幕之内君のリバーブローを食らって崩れそうになる。周囲は彼が倒れると目を背けている人達もいた。
私も目を瞑ってしまいそうになったけど、
『しっかり見ててくれよ?』
そう言った彼に私は目を逸らさないと約束をした。歯を食いしばってリングの上の彼を見る。
ふと、目が合った。
彼は何とか耐えて体勢を立て直す。そこへ幕之内君のデンプシーからのパンチが出た。
しかし、彼はそれを紙一重でかわしてカウンターを決める。それがきれいに入った幕之内君はダウンした。
「ニュートラルコーナーへ。」
レフェリーが2人の間に立って彼にそう告げるとカウントを開始した。
カウント7で幕之内君が動き出した。彼はコーナーを背に振り返り、試合開始に備えて構える。
幕之内君は足元が覚束ないようだが立ち上がった。
しかし、
「ナイン。」
膝をつく。
「テン。」
試合終了のゴングが鳴った。
「勝者、宮田。」
レフェリーが彼の腕が掲げる。彼はイマイチ状況が飲み込めていないのか、呆けている。トレーナーの2人が声を掛ける。二言、三言言葉を交わして彼はフラフラと幕之内君に近づいた。手を差し出して幕之内君の手を引いて立たせている。
言葉を交わした後、幕之内君が彼の右腕を掲げた。
リングには鴨川メンバーが全員上がっている。
木村さんと目が合い、
「来る?」
と言われたようだったが私は小さく首を左右に振って答えた。
鷹村さんが彼と幕之内君をまとめて抱え上げていた。視界がぼやけて良く見えない。
客席に目を向けた彼と目が合った。涙が零れた。
私は声にならない声で「おめでとう」と言った。
彼はフッと笑い、天に腕を突き上げた。拍手がさらに大きくなる。
再び彼の腰にベルトが巻かれて勝利インタビューも済み、今日のイベントが終了した。
人の波が引いていくのを待っていると、
「『軍神』ですか?」
と聞いてくる人が何人かいた。
「いいえ、違います。」
実際私は『軍神』なんて名前でもなければ神様でもない。いい加減に皆忘れてくれないかと思う。
随分と人が減ったので私はとりあえずトイレに向かった。泣いてしまったから崩れた化粧を直さないとみっともない。
今日のメールを送ってきたのは彼で
『試合が終わったあと、ホールの席で待っていてほしい』
と一言だけのものだった。
トイレで化粧を直し、どこに隠れていようかと悩んでいたら、電気が落ちた。
見つからなかったのは幸いだが、はっきり言って何かでそうで怖い。
静かにホールへ戻ると彼が出口に向かっていた。
「こらぁ、人に待ってろって言うんだったら自分も少しくらい待つとかしなさい!」
思った以上に声が響いて動揺してしまった。それを隠すために私は腰に手を当てて偉そうにしてみた。彼と目が合い、悪戯っぽく笑ってみせる。彼も、目を細めた。
足元が見えないので階段を踏み外さないように慎重に降りた。
私は彼の前に立つ。
「で、何の御用でしょう?」
「こっち。」
彼は自分の荷物と私の荷物を傍の席に置き、私の手を引いてリングに上がろうとしたので私は驚いて足を止めた。彼は怪訝な顔をして振り返る。
「ちょっと、リング?そこは君たちボクサーの聖地なんでしょ?私が立っていいところじゃないよ。」
彼は溜息を吐き、
「暴れるなよ、疲れてるからしっかり支えられないぜ。」
と言って私の背中と膝の裏に手を差し込み抱え上げて階段を上る。ロープの前で私を降ろして手を引きながらロープをくぐってリングに立つ。
「ほら、入って。」
有無を言わせない彼に観念して「お邪魔します」と言いながらロープロくぐった。
そこは、さっきまで彼が死闘を繰り広げていたところだ。空気が違う気がした。
彼に手を引かれてリングの中央に立つ。
彼は真剣な眼差しで口を開く。
「さん。俺、今日の試合に勝ったら伝えようと思っていたことがあったんだ。
俺にとってさんは、一生大事にしたい、守りたいって思う女性なんだ。俺はボクシング以外何もないし、情けないところもたくさんあるけど、でも、この想いは誰にも負けない。
この先、俺はやっぱり無茶や無理をすると思う。でも、さんには一番近くで俺の応援をしてほしい。ずっと傍にいてほしい。
この先の人生、俺と共に歩んでくれないか?」
私は嬉しくて思わず彼に抱きついた。彼はおずおずと私の背に手を回して応える。その姿勢のまま私は顔を上げた。泣くか笑うかどっちかにしたかったけど無理な話だ。
「私にも心の準備というものが必要なんだよ。告白とプロポーズを同時にされたら涙止まらないでしょ?...私、前に言ったことあるよね、『宮田君の恋人とか、奥さんになる人は幸せだろうね』って。
言った通りだったよ。私は今、凄く幸せだよ。」
「まだまだ、これからもっと幸せにしてやるよ。」
彼は私を抱きしめて耳元でそう囁く。そのままの姿勢で
「2人で目いっぱい幸せになろう。」
私も声を出した。
彼が私を剥がして上着のポケットから何かを取り出す。暗いし小さいもののようでよく見えない。彼は私の手を取って、
「じゃあ、これも受け取ってもらえるよな?」
私の薬指に指輪を嵌めた。飾りのないシンプルだが細工が施してあるシルバーリングだった。
「...少し大きかったか?」
私が嬉しくてまじまじと指輪を見ていたら心配そうに声を掛けてくる。
「いや、こんなもんじゃないの?良く分かんないけど。ありがとう。」
自分の指に指輪が光っているのは何だか照れくさかった。顔を上げて彼に礼を言う。
彼が私の頬に手を添え、彼の顔が徐々に近づいてきた。私は目を瞑る。唇に優しく口付けされる。
唇が離れ、私は照れくさくて俯く。ホールが暗くて良かった。絶対に今、顔が真赤になっている。
私は視線を彼に送る。彼もそっぽを向いたままで視線だけ私に向けてきた。目が合って、どちらからともなく吹き出した。
一通り笑ったあと、彼が、
「そろそろ帰るか?」
と言う。
「そだね。今日は車で来てるからお送りしましょう。でもちょっと待って。誰かさんのお陰でお化粧が崩れちゃったから直して来る。」
そう言って私はリングを降りて行った。
「なあ、『』って呼んでいいか?」
帰りの車の中で突然彼が聞いてきた。そう律儀に聞いてくる彼が可笑しくて笑ってしまう。
「今更でしょ?あ、でも私はこれからも『宮田君』って呼ぶよ。」
それを不服と思ったらしい彼が拗ねたような声を出す。
「何で名前じゃないんだよ。」
「私が『宮田君』っていう音の響きが好きだから。まぁ、宮田君が嫌なら『一郎』って呼ぶよ?」
「...いや、の好きでいいよ。重要なのはそこじゃないしな。」
気になったから一瞬彼に視線を送り、「じゃあ、どこ?」と聞いてみた。
「重要なのは、俺のすぐ傍に俺の愛しいが居るコトだから。」
マズイ。
思考が停止する寸前にバックミラーで後続車が居ないことを確認してブレーキを踏む。
頭の中が真っ白になった。スピードも出していなかったし、彼は反射神経がいいから大丈夫だろう。
「?」
彼の声でとりあえず思考が回復したので車を路肩に寄せてハザードランプを点ける。
ハンドルに額をつけて深く息を吐き、口を開いた。
「宮田君、運転中にそういう恥ずかしい事言わないで。下手したら世界チャンプになる前に自分の発言で死ぬよ?自分で言うのもなんだけど、免疫ないのよ、私。思いっきり動揺しちゃったじゃないの。」
きっと、今凄く赤い顔をしている。深呼吸をして自分を落ち着ける。
何とか落ち着いたから車を出した。
彼の家に近づくと寝息が聞こえる。ラジオもつけず、会話もしていなかったから眠ってしまったらしい。安らかな顔をして眠っている彼を見て悪戯を思いつく。
車を停めて鞄から口紅を取り出して塗り直し、彼の頬にキスをした。
「上出来だね。さっきあんな恥ずかしいことを言って私を動揺させたお返しだよ。」
彼の頬にくっきりと口紅が付いたのを見て私は満足して再び車を出す。
「着きましたよ、お客サン。」
彼の家の前に車を停めて肩を揺すって起こす。
「ああ、悪い。」
「いえいえ、疲れてたんだよ。ラウンド数は半分もいかなかったけど、死闘って感じだったもんね。そういえば、最後のカウンターはきれいに決まったね。」
「あー、そうらしいな。実は今日、どうやって勝ったか覚えてないんだ。
...それじゃあ、ありがとう。気をつけて帰れよ。」
彼はドアを閉めて中を覗いてきた。
私は笑いを必死に堪えて発車した。
きっと鏡を見て私の仕返しに驚くだろう。
そんな彼の表情を見ることが出来ないのが実に残念だ。
私は上機嫌に車を走らせて我が家を目指した。
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